御由緒

 渋江氏の始祖である左大臣 橘諸兄公の孫 島田麻呂は、768年(神護景雲二年) 奈良の春日大社造営の勅命を受けました。奈良猿沢の池のほとりに水神宮を建立し、無事竣工を祈願。造営が滞りなく成就した為、その功により称徳天皇より初めて水神を氏神に祭ることを許されました。これより橘氏は代々 水宮行事を司るようになりました。

 

その後 幾多の移り変わりを経て、1579年(天正七年)ころ肥前杵島の長島庁潮見城主の後裔渋江公師は 大村純忠の招きに応じて 波佐見岳之山に城を築き居城。当時は治水工事がまだ不十分で 干ばつになると 神に祈る雨乞い祈願しかありませんでした。1802年(享和二年)七月の大干ばつのとき大村郡川本城渕で雨乞い祈祷を行ない雨を降らせた功で、藩公の信頼を得て手厚く保護を受けました。また、水神の社地及び水神宮造営費の献納があり 1846年(弘仁二年)には現在の石の祠が建立されました。

 

その後 年月を経て社殿も老朽化したため1957年(昭和三十二年)波佐見町郷総代会のご賛同をえて 改修についての奉賛会を結成し波佐見町内をはじめ 町外崇敬者多数の方々のご芳志をいただき改修を致しました。さらに1984年(昭和五十九年)七月 地元を中心とする氏子崇敬者により氏神として社殿 社城が改修設備されました。

御祭神

国狭槌尊(くにのさつちのみこと)

  「日本書記」の天地開闢の段に登場する男神。神代七代のうちの一柱。神名「サツチ」の「サ」は神稲、「ツチ」は土、即ち神稲を植える土の意。

    「古事記」においては、山の神 大山祇命(おおやまつみのみこと)と野の神 鹿屋野比売命(かやぬひめのみこと)から生まれた神で、大地を守護する神と考えられます。

 

罔象女尊(みずはのめのみこと)

  日本における代表的な水の神。神名「ミヅハ」は「水走」と解して灌漑のための引水の事を指したもの。

  罔象は「准南子」などの中国の文献で、龍や小児などの姿をした水の精であると説明されています。

  灌漑用水の神、井戸の神として信仰され、祈雨・止雨・治水、また子宝・安産の神徳があるとされます。

 

九頭龍権現 縁結び、水の神様として開運、金運にもご利益があると言われています。

 

淡島大明神 子授け・安産、病気平癒のご利益があると言われています。

『日本山海名物図会』宝暦4年(1754年)兵庫県立歴史博物館蔵 河童の画
『日本山海名物図会』宝暦4年(1754年)兵庫県立歴史博物館蔵

河童

  河童といえば、鼻先がくちばしのように前に突き出ていて、甲羅を背負い、青緑色の体色をしたイメージだと思います。

しかし、これは19世紀に入ってからのことで、それ以前は頭頂部の窪みと水かきのある猿のような姿で描かれていました。そして、体色は赤かったそうです。

「カッパ」ではなく「カワロウ」などと呼ばれ、1754年刊の『日本山海名物図会』では豊後国(大分県)の名物として「河太郎」が紹介され、「形五十六歳の小児のごとく遍見(そうみ)に毛ありて猿に似て眼するどし」と記されています。

 

 渋江家と河童には、深い関わりがあります。

奈良時代、渋江家の始祖 橘島田麻呂は春日大社の造営の命を受けた際、難事業を成し遂げる為に、飛騨の匠に99体の木製の人形を作らせ、それに生命を与えて働かせ、無事春日大社ができたそうです。造営が終わると、人形へ戻し川へ流したのですが、その人形が河童になったと言われています。 

河童の爪かけ石 (水神宮社殿 右奥の池)
河童の爪かけ石 (水神宮社殿 右奥の池)

 

水の五訓

 一、 自ら活動して他を動かす者は水なり

 一、 常に自己の進路を求めて止まざる者は水なり

 一、 障碍に合ひその勢を百倍にする者は水なり

 一、 自ら潔くして他の汚れを洗い清濁併せ容れ

    量める者は水なり

 一、 洋として太洋を満たし発して蒸気となり

    雨となり雪と化し霧と変じ凝って玲瓏なる

    鏡となりしかもその性を失せざる者は水なり


協和郷カッパ作品展

 8月 協和郷自治公民館活動行事として、波佐見焼伝統工芸士の方をお招きし、郷民の皆様とカッパ作品製作会を行ないました。

 現在、水神宮の社殿にて「協和郷カッパ作品会」と題し、完成したカッパ達や陶板・皿を展示しております。

 10月1日には、奉納会を執り行う予定です。ぜひご観覧ください。